はじめまして。私は東京のIT企業で働く35歳の女性です。名は千景(ちかげ)と申します。
私は地元の高校を卒業してから35歳の現在までに5回転職をし、手取り15万円だった給料が37万円になりました。
仕事を辞めたいよ…転職したいよ…
と悩んでいるあなたに、
こんな人生もあるんだ…私も勇気を出して転職しよう…
と明日の糧にしていただければ幸いです。
サクッと読みたい方向けに3分で読めるようにまとめました。その後に具体的な体験談がありますので、じっくり読みたい方はぜひ最後までどうぞ。
3分で読める転職体験談のまとめ
1. 転職は成功だった?
転職してよかった。あの辛い時期から抜け出せて本当によかった。そう思える今、私の転職は成功だったと言えます。
給料の面で言えば、最初に就職したアパレル会社は手取りで月15万円でしたが、それから5回の転職を経て現在は37万円、年収550万円になりました。
仕事内容もこれまで培ったスキルを活かすことができる環境で満足しています。
2. 転職回数は何回?どんな仕事をしてきたの?
正社員・契約社員で数えると5回転職をしました。
1回目:アパレルショップ店員
2回目:携帯電話の販売員
3回目:Webデザイナー
4回目:Web担当者
5回目:IT企業の事業推進、Webマーケティング、法人営業
私のキャリアはギャルのショップ店員から始まり、クレーム地獄の携帯電話業界を経て、Webデザインを学び、現在は東京の某IT企業に勤めています。
31歳の頃、働く気力がなく1年くらい引きこもっていた時期もありました。
詳細はこの後の具体的な体験談でお話しますので、お時間がある方はぜひ読んでいってくださいね。
3. 給料は上がった?下がった?
上がった時もあれば、下がった時もあります。人生山あり谷ありですね。
当時の月の手取りです。
アパレルショップ店員: 15万
アパレルショップ店員:22万
携帯電話販売員:18万〜28万円
Webデザイナー:24万
Web担当者:16万
IT企業の事業推進、Webマーケティング、法人営業 :37万
現在は手取りで月37万円の給料をもらっているので、結果的には上がりました。
4. 未経験でどうやって転職したの?
3回目の転職では未経験からWebデザイナーになりましたが、技術を身に付ける為に職業訓練に通いました。
職業訓練とは国や都道府県が主催する無料で通える学校です。民間の企業へ委託をして実施されています。
それだけでは実務で通用するほどのスキルは身につかなかったので、自分でWebサイトをいくつか作り、制作実績として提出して受かりました。
5. 転職に悩んだ時はどうしたらいい?
仕事を辞めたいけど辞められない…
自分に合う仕事をどうやって見つけたらいいかわからない…
これまでと違う職種にチャレンジしたい…でもスキルがない…
私は20代の頃、誰にも相談できずひとりでそんな悩みを抱えていました。
もし同じように悩んでいる方がいたら、転職をサポートしてくれる会社や、公共機関のキャリアコンサルタントに相談することをおすすめします。
漠然とした転職に関する悩みはもちろん、キャリアチェンジの相談や、応募書類の書き方、面接対策など、無料で転職のサポートをしてもらえます。
当時の私はそんな会社があることを知らずにひとりで悶々と悩んでいたので、貴重な時間を無駄にしてしまったと後悔しています。
私のように時間を無駄にしたり、後悔をしないでくださいね。限りある人生の時間、大切に使ってくださいね。
ここからは、時間のある方向けにより具体的な転職体験談です。
お時間のある方はぜひ最後まで読んでいってくださいね。
ここからはじっくり読みたい方向けの転職体験談
プロローグ:小中高時代、常に劣等感があった
小・中学校の頃、私の通知表には2と3しかなかった。何をしても平均点以下。人より劣っていると小学2年生で自覚した。
高校受験は失敗した。親友と一緒に受けた第一志望に私だけが落ち、すべり止めで受けた市内で底辺と言われる高校へ進学した。
当時はコギャルやアムラーが流行し、女子高生ブームと言われる時代だった。
高校生になった私はその時代の波に乗り、髪の毛を染め、制服を着崩しルーズソックスを履いた。
勉強もせず、毎日遊んでばかり。学校帰りにカラオケに行き、日サロや海で真っ黒に焼き、家に帰らずに夜な夜な遊んでいた。都会のコギャルを憧れる典型的な田舎のコギャルだった。
まじでーちょーやばいー
授業もろくに受けず、試験は毎回赤点で単位も足りない。このままでは留年確実と言われしぶしぶ補修と追試を受け、なんとかギリギリの成績で卒業した。
全然勉強してないけどギリ卒業できたわー
19歳、初めての就職 アパレルショップの店員になる
高校卒業後は特にやりたいこともなく、進学も就職もせずにふらふらしていた。
そんなとき、当時ギャルに絶大な人気を誇るアパレルブランドが地元の大きな街にオープンすることになった。
この頃、人気がある販売員は雑誌やTVで「カリスマ店員」と取り上げられ、全ギャルの憧れの的だった。
千景もカリスマ店員になりたーい!よゆーで受かるしょ!
自信満々で応募をしたが、履歴書で落とされた。
自分を否定されたようで悔しくて、本社へ電話をかけて直談判することにした。
履歴書だけでなにがわかるんすか!
直接会って私を見てから決めてくださいよ!
そこをなんとか!面接だけでも!
と懇願した。
すると、面接に来てもいいと言われた。言ってみるもんだ。
面接では「履歴書で落ちて電話をかけてきたのは、あなただけだった。」と社長に熱意と粘り強さを評価され、無事合格した。
後で聞いた話によると、10人の枠に300人を超える応募があったらしい。
そんな難関をくぐり抜け話題のショップ店員になった私は、地元のギャル友達からカリスマ扱いを受けてずいぶんと調子に乗った。
カリスマ店員の千景に言わせれば、地元のみんなダサすぎるわ〜
そんな経緯で憧れのショップ店員になったが、実際に働いてみると思い描いていた理想とはずいぶんと違った。
売り上げのノルマはあるし、品出しは体力を使うし、店長は口うるさいし、給料も安かった。
そんな環境に不満が溜まった私は、店長と喧嘩をして半年ほどであっさりと辞めた。
店長うざいから辞めるわ!
19歳、初めての転職
喧嘩をして辞めたものの接客業は嫌いじゃなかった。ショップ店員は続けたいと思っていた私はアパレル関係の友人が紹介してくれた別のショップですぐに働き出した。
そこでは契約社員として雇用されたが、前の会社よりも給料がよかった。(前職15万→22万円にアップ)複数のブランドを展開する大手だった。
特に大きな不満はなく働いていたが、その職場で出会ったAちゃんのおかげで私はその後オーストラリアで暮らすことになる。
20歳、ワーキングホリデーでオーストラリアへ
働き始めて半年が経った頃、仲良くなった同僚のAちゃんに、
千景、ワーキングホリデーって知ってる?一緒にオーストラリアに行こうよ!
と誘われたのだ。
ワーキングホリデーをざっくり説明すると「1年間海外で働いたり勉強したりできる制度」だ。語学学校へ通ったりバイトをしたり旅行をしたりと、好きなことをして1年過ごせる。
当時私は海外へ行ったことがなかったが、友達と一緒なら行ってみてもいいかもと思い、仕事を辞めて1年間オーストラリアへ行くことにした。
ワーキングホリデーの体験談は話すと長くなるのでまた別の機会にするが、結論から言うと行ってよかった。
語学学校、ホームステイ、住込みで家政婦のバイトをし、ネイルスクールにも通った。バックパックを背負って周遊旅行をしたことは一生忘れられない最高の思い出になった。
思うがままに好きなことをした1年だった。
多くの人との出会いと別れがあり、たくさん笑ってたくさん泣いた。
帰国する頃には見た目も心も少し大人になっていた。
「世界はこんなに広くて、こんなにも知らないことや楽しいことがあるんだ。私もこれから世界に通用する人間になりたい。」と、20歳の私は希望に満ち溢れていた。
21歳、帰国後現実に戻った
渡豪前の私は
1年も海外に行けば英語がペラペラになって、日本に帰ったら英語を使ったかっこいい仕事ができるんでしょ
と本気で思っていた。
そんなわけが無い。
たかが1年で、しかもそれまで勉強をしてこなかった不真面目な私が急に仕事で使える語学力を身につけられるわけがない。
帰国後、現実に戻り、私程度の語学力と熱意では英語を使った仕事はできないと悟り、かと言ってやりたい仕事があるわけでもなく、私は振り出しに戻ってしまった。
22歳、はじめての学歴コンプレックス
帰国後、燃え尽きた私は何もやる気が起きず、しばらく実家に引きこもっていた。
見かねた友人にバーのアルバイトを紹介され、働くことになった。
ここで大学生のB君に出会ったことで、私は生まれてはじめて学歴コンプレックスという感情を持った。
B君は私と同い年の22歳。地元の有名大学に通いながらバーテンダーのバイトをしていた。
かたや私は高卒フリーター。なんならつい先日まで引きこもりニートだ。
ある日、店長とBくんと私の3人でシフトに入っている時に、大学や就活の話題になった。
大学に行ったことのない私は、話を振られても会話についていくことができず、変な空気になってしまった。
私高卒だから大学のこと分かんないや
と伝えると、
そうなんだ…
と言ったきり、私がいる時に大学の話はしなくなった。
店長からは、
俺も大学中退してて、高卒みたいなもんだから大丈夫だよ〜
と、何が大丈夫なのかよくわからないフォローをされた。
なんだかわからないが、惨めな気持ちなった。
高卒であることを初めて恥じた。
ふと、高3の進路を決める時期に、母親から言われた言葉を思い出した。
千景の人生だから千景の好きなように生きればいい。でも社会に出てから後悔するかもしれないよ。それでもいいのね?
母は私に進学をすすめたが、私が
もう学校行きたくないし!!勉強したくないし!!
と頑なに拒否したため、最後に念押ししたのだ。
22歳になり、ようやく母の言葉を理解した。
学歴コンプレックスは未だに克服できていない。
23歳、月8万の収入で心が病む
バーのバイトは、夜8時〜朝4時まで、週3で働いており、昼夜逆転の生活だった。
収入は月に8万円くらい。
そこから国保や税金、滞納していた年金を支払い、ニートの時に親に借りていたお金を返すと、自由に使えるお金はほんの少し。
こんなんじゃ服や化粧品も買えないし美容院にも行けない。友達と遊びにも行けない。
かといってこれ以上働く気力もなかった。
世間の真っ当な同級生は新社会人…
私は何をしているんだろう…
これからなにをすればいいのだろう…
自分になにができるのかわからない…
どんな仕事をすればいいのかわからない…
どうやって仕事を探せばいいかわからない…
これから自分がどうなっていくのか、どうすればいいのか、だれにも相談できずに漠然とした不安と焦りを感じていた。
23歳、2回目の転職、携帯ショップの販売員になる
そんなある日、近所の携帯ショップの窓に貼られた求人チラシに目がとまった。
店内を見ると若い女性がかわいい制服を来て、カウンターに座りながら雑談をしていた。
「カウンターに座って携帯電話を売るだけなら簡単そうだし楽そうじゃん」と思い、応募することにした。
履歴書を送ると、面接にくるようにと言われた。
しかし、残念なことに私はまともな就活経験がないので、リクルートスーツの存在を知らなかった。
そのため面接当日は、ミニスカートにロングブーツ、ヴィトンのバックという、自分の中では一番の勝負服で挑んだ。
会社の廊下で数名の社員とすれ違ったが、私は会釈も挨拶もせず、カツカツとヒールの音を鳴らし澄まし顔で面接の部屋へ向かった。
そんな非常識な私はもちろん対策など一切していないので、筆記試験も面接もボロボロだった。
しかし、なぜか面接官の課長に気に入られ、奇跡的に内定をもらった。
他の社員からは
面接にあんな格好でくる非常識な人、絶対採用しないでください!!!どうせすぐ辞めるだろうし!!
と猛抗議が殺到したらしい。そりゃそうだろう。
しかしそんな予想に反して、私はその後7年間勤め、店長、主任へと昇格することになる。
23歳〜29歳、辛く長い7年間
私が勤務した7年間は、携帯業界にとって怒涛の変革期だった。
カメラ付き携帯が普及し、ワンセグ、おサイフケータイ、第3世代携帯(3G)、番号ポータビリティ、割賦販売、iPhoneの発売と、次から次へと新サービスが発表され、ドコモ・au・ソフトバンクの3社による熾烈なシェア争いが繰り広げられていた。
それに伴い、受付業務は目まぐるしく変わった。また、携帯ショップはクレームが多く、それが嫌で辞めていくスタッフも何人もいた。
「カウンターに座って携帯を売るだけなら簡単そうだし楽そうじゃん」と入社を決めた私には、想像以上に過酷な仕事だった。
しかし、私は人が変わったように真面目に仕事をした。この環境でがんばれば自分が変われる気がした。
クレーム対応は苦手だったが、接客は好きだったのでお客さんとのコミュニケーションは楽しかった。
入社2年目に入ると、営業成績はトップクラスになった。また、資格試験も必死に勉強して難関の最上位資格を取得した。
そんな努力を評価されて、入社5年目に新店舗立ち上げの店長に抜擢された。評価されたことは嬉しかったが、のしかかかる責任の重さに不安を感じていた。
そんな不安を抱えて店長になった私は、売上目標や責任者としてクレーム対応をしなければいけないプレッシャーで日増しにストレスが溜まっていった。
そのストレスは、全身蕁麻疹、自律神経失調症、強迫性障害、睡眠障害となった。心療内科でもらう精神安定剤と睡眠薬を飲みながら仕事をしていた。
今思えば、退職願いを出してさっさと辞めればよかったが、
私が辞めたらお店が回らなくなる…
会社やスタッフに迷惑をかけてしまう…
と、自分で自分を洗脳してしまっていた。
また、上司に辞めたいと相談してもすんなりと辞めさせてもらえないことはわかっていたので諦めていた。
退職を願い出た人に対して、長期に渡り何度も説得することがこの会社の習わしだった。
事実、私は上司に退職の相談をしてから、1年経ってようやく辞めることができた。
そんな7年間だったが、この仕事をしたことで入社前とは比べ物にならないほど、社会人としてのビジネススキルは上がった。
接客、電話応対、営業、クレーム処理。店舗運営、人材育成を任されるほどに私は成長した。
面接にミニスカートとブーツで挑んだあの私がだ。人間やればできるもんだ。
ちなみに退職する頃の給料は手取りで月28万円くらいだったかな。給料に不満はなかった。
30歳、職業訓練に通う
退職をした私は、再就職のために仕事探しを始めた。
ある日、失業保険の申請で職業安定所(ハローワーク)に行った際に、「職業訓練」というものが無料で受けられることを知った。
職業訓練とは、国または都道府県の自治体が主催する受講料無料の学校だ。
WordやExelの基礎や、一般事務、医療事務、IT基礎、プログラミング、Webデザイン、CAD、介護、簿記会計など、様々なコースがある。
事務や医療事務とも迷ったが、私は思い切ってこれまでと全く畑違いの「Webデザイナー科」に通うことにした。
Webデザイナーとは簡単に言うと、Webサイト(ホームページ)を作る人だ。
私は幼い頃から絵を書くことが好きだったが、学校の授業以外で学ぶ機会がなかったので、いつか絵やデザインの勉強がしたいと密かに思っていた。
また、インターネットも昔から好きだった。まだスマホもなく、ネットをする人が少なかった時代に自分のPCを持っていたので、ギャル友達からは「PC持ってるとか、オタクじゃんw」とよくいじられていた。
そんな興味のある2つが合わさったWebデザイナーを目指すことで、新しいなにかを見つけられるかもしれないと期待をした。
しかし、職業訓練に通いだしてからWebデザイナーを目指すには遅すぎたと気づいた。周りは20代ばかりだった。
知り合いの先輩Webデザイナーに就活相談をしたところ、
- 20代ならまだしも30代未経験は厳しい
- 就職できたとしても給料は安い
- 中には深夜まで働かさせるブラックな会社もある
と厳しい業界の事情を聞かされた。
Webデザイナーとしてゼロから一人前になるには、最低でも2.3年はかかる。その頃には私は33歳だ。
Webデザインは楽しかったので、これを仕事にできたらいいなという想いと、厳しい現実との間で迷っていた。
結局、自分がどうしたいのか答えをだせぬまま、3ヶ月の職業訓練は終了してしまった。
30歳、3回目の転職、Webデザイナーとして就職する
20代のクラスメイトたちは続々と就職が決まっていった。
私はまだ迷っていた。
このままWebデザイナーの道を目指していいのかな…
若い人が多い業界だし…
私なんてもう30歳だし…
やる前からできない理由をグダグダ考える、私の悪い癖だ。
そんなとき、知人から「3ヶ月の短期でWebデザイナーを探している会社があるけどやってみない?」と声をかけてもらった。
なんでも、県による求職者向けの雇用促進事業で補助金が出るため給料が良いらしい。
地方の見習いWebデザイナー1年目の給料は16万〜18万くらいと言われているが、24万もらえるという話だ。
しかも3ヶ月の短期なので、迷っている私にはちょうどいい。
早速応募をして、面接に無事に受かった私は、3ヶ月間Webデザイナーとして働いた。
3ヶ月やってみて、スキルとしてはまだまだだったが、やりがいもあったし楽しかった。
でもWebデザイナーとしてどこかで腰を据えてやりたい、と思えるほどの情熱が自分の中に感じられなかった。
31歳、ふたたび無職
Webに関わる仕事はしたいとは思っていたが、それが具体的になんなのか、どうやってみつければいいかわからず、前に進めずにいた。
そんなもやもやした気持ちをかかえたまま、結局それから1年ほど無職だった。
携帯販売の時に貯めた貯金を切り崩しながら、実家に引きこもった。
その間、友人から頼まれてサイトを作ったりして、Webとは完全には離れないようにはしていたが、なにかが前進するわけでもなく、ただ時間だけが過ぎていた。
「31歳独身で実家に引きこもる無職」って我ながらなかなかのクズだなぁ
なんて思いながらも、1日中ベットの中でSNSやYouTubeを見て現実逃避をする日々だった。
32歳、4回目の転職、Web担当者になる
無職歴が1年になり、貯金も底をつきかけたある日、知人から「Webの担当者を探してる会社があるんだけど、やってみない?」と声をかけられた。
ホームページの運営を担当していた社員が急に辞めることになって、社長が困っているから手伝ってあげてほしいと。
また、サイトの運営だけでなく、店舗の受付業務もヘルプで入れる人を探しているとの話だった。
Web運営と店舗業務の両方なら、これまでのスキルが活かせそう、と思って引き受けることにした。
実際の仕事内容としては、サイトに掲載する商品の写真撮影→文章作成とページデザイン。お客さんからのお問い合わせ対応など、Webに関わる業務は全て行った。
また店舗が忙しくなったら、電話に出たり、店頭に出て接客もした。
この会社にはWebに詳しい人がいなかったので、こんな私でもとても重宝された。
勤務時間は、9時出社で18時が定時。繁忙期以外残業もほとんどなく、自分の仕事が終われば、17時に帰ってもよかった。
しかし、唯一残念だったのは、給料が安かった。手取り16万円。
面接の時に社長から「正直業績が悪くて、給料もこれだけしか出せなくて申し訳ないが、ぜひ助けてほしい」と言われていた。
給料は安いが人間関係は良く仕事にストレスはなかった。そんな環境に満足していたので辞めることなく続けていた。
33歳、ブログを始める
基本定時で帰れるので、特に趣味もなく時間を持て余していた私はブログを始めることにした。
変化の速いWeb業界は常に勉強が必要なので、ブログで勉強したことや、実践したことを書いた。
Webの技術的な話だけでなく、マーケティングや実店舗の接客・営業方法についても書いた。
始めた頃は、知人が読んでくれる程度だったが、しばらくするとSNSで知らない人たちにシェアされて「わかりやすかった!」「次の記事が楽しみ!」と反応をもらえるようになり、その声がブログを更新する励みになった。
もともと文章を書くことは苦手だったので、こんなにもブログを楽しんで続けている自分が意外だったが、苦手なことでもチャレンジして続けていればできるようになるんだなぁ、と33歳にして「チャレンジすること」「続けること」の大切さを身にしみて感じていた。
そして、このブログが大きな転機となる。
35歳、5回目の転職、東京のIT企業に転職
入社して3年目に入ったある日、私のブログに一通のメールがきた。
私は東京で○○という会社の代表をしている○○と申します。ブログを拝見してご連絡しました。よろしければ東京にお越しいただき、一度お話できませんか?
スカウトだった。自分の人生でスカウトされるなんて思っても見なかったので、びっくりした。
会社を調べてみたら、最先端のIT技術を使った製品を開発しているベンチャー企業だった。
交通費も宿泊費もだすので観光気分で一度会社に遊びにきてほしいと熱心に言われて行ってみることにした。
しかし、東京に向かう道中はとても不安だった。
ウェブサイトの社員紹介ページには華々しい経歴を持つ社員がずらりと掲載されていた。私でも知っているような有名大学出身者、有名企業出身者ばかり。そして見るからに若い人が多い。
そこ並ぶ人々は私の人生とは無縁の人種だった。
なにを勘違いしてこの社長は私に目つけたのだろう…
私は、自分が「高卒の35歳」という事実を伝えなければいけないことが憂鬱だった。
仮に入社したととしても、こんな優秀な人たちについていけるかという不安もあった。
しかし社長と会ってそんな不安は吹き飛んだ。
学歴も年齢もまったく問題ありません。
私は得意なことが飛び抜けた人たちを集めてこの会社を作っています。弊社の誰も持っていない才能をあなたが持っていると思い、ご連絡しました。
実際にお会いしてみて私の直感は間違ってなかったと思っています。ぜひ入社していただけますか?
本当はもっともっと素晴らしい言葉だったけど、こんなニュアンスだった。
人生でこんなにも心を打たれたのは始めてだった。
この会社に自分の人生の時間を使いたいと思い入社を決めた。
36歳、現在の私
私は現在、地元を離れ東京で暮らしている。
この会社で事業推進の仕事をしている。ユーザーサポートや営業が主な業務だ。
給料は手取りで37万円。年収で550万。
かつてアルバイトで月に7万円しか稼げずに病んでいた私が今は東京のIT企業で働いている。
正直、優秀な同僚に引け目を感じることはあるが、それでも自分を必要としてくれているこの会社で働けていることを心から幸せに思う。
この先また環境は変わるかもしれない。
また奈落の底に落ちるかもしれない。
その時はまた立ち止まって自分の気持ちに正直に進む道を探せばいい。
一度きりの人生だから後悔はしないように。
最後まで読んでくださってありがとうございました
転職を考えているみなさんが良いご縁に恵まれますように願っています。
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